2011年9月29日木曜日

Il popolo di Dio

最近、ふとしたときに無性に幸せに感じること。




カテキズムを担当して下さってるシスターに出会えた事。

最初は別のシスターが担当で、もちろんそのシスターも大好きなのですが、今の担当のシスターは日本人なのでより深く通じあえるというか、話し合える仲です。(とは言っても私は主にリスナーです)

シスターは多分83歳(?)位。どうしてこんなに年令や生きてきた時代が違うのにこんなにも同じなんだろうって思えます。不思議。




先日も、
「自分は他の人の前ではこんなに話さないのに、あなたがしゃべらないから自分のことをしゃべりすぎてしまう、」
とおっしゃっていたけど、最後には
「聞いてくれる人がいるってのはいいものですね」
と。特に言葉を交わさなくても分かりあえてる友人の神父様やシスターが数名いらしゃるそうなのですが、友人と呼ぶにはあなたは若すぎるけどと、前置きしながらも
「あなたもそのような人」
とおっしゃってくださいました。



私にとってもシスターは特別な人。

おばあちゃんと孫みたいな年の差だけど、シスターは親以上、すべての友人以上に貴重。(これを読んだ私の友達、気を悪くしないでね 笑) そして自分以上。 本当に今まで、きっとこれからも誰とも話す機会のなかった領域のこと、今まで考えてきたこと、求めてきたことを話し合える存在。今まで生きてきてそういう話をする機会を持ったことは33年間で初めて。



今は週1回のシスターと2人で聖書を読んでいる時間が何よりたのしい。



でも、最初に読んだ高校生の時から今まで1人で読んでいたので、よく
「そういう読み方する人は初めてです」
と言われ、解釈が合っているのか間違っているのか不安になるのですが、同じ文字をよんで感じたことを分かち合う作業が1年経った今でも新鮮でならない。


今日は、
「あなたと読み始めて1年が過ぎたけど、ここに来て最近私の聖書の読み方(感じ方)が変わってきたわ」
と、言われました。ある意味とっても怖いお言葉です(笑) 変わらない方がよろしいのでは...


私は、物心つく前から近所に居た祖母からは彼女が死ぬまで母も私も受け入れられなかったので、なんとなく年寄りってこちらが何もしなくても攻撃されそうで苦手で縁がなかったけど、子供の頃に出来なかった普通の祖母と孫の体験を今させてもらえているのかもしれません。(かといって、シスターの事をお年寄りとは思っている訳ではないのですけれど。。。)


残念な子供時代のついでにもう一つ、これは私の考えですが、子供にとっての異性の親って無条件で愛してもらえる最初の異性だと思うのですが、私にはそれがなかった。
女の場合だと、最初の無償の愛を与える異性は父親になるのですが、そこで正常に与えられないとなんだかんだと屈折してしまう。無償の愛の体験がないからそれが存在するということが分からない。その概念がない。

無償で与えられる愛=無条件に愛される愛


その欠落がいつも人と違うと引け目に感じていたけれど、それを与える存在である父親という物質的な欠如があった故に3つ、4つの年令から神さまを身近な存在として生活してこれたんですよね。。。頼るべきものはあなただけという想いが強かったから四六時中対話していたのでしょう。今の私は過去の自分にかえらければならないのかもしれません。
昔ほど対話がなくなったのは、困難があっても自分で何とかできる、何とかする、という傲慢があるからなのでしょう。(悪い意味で)大人になったものです。



ちょっと話は無償の愛に戻って、更にさっきと言ってる事違うじゃないかと突っ込まれそうなのですが、無償の愛の体験がないのではなくて、神様からの無条件の愛への気付きはあるけれど、正確には人間からの無償の愛の体験がなかったと言うことですね。

成人洗礼の人から、僕の友達のような幼児洗礼のような人たちは愛というと神様の愛とか人間愛みたいのを指すらしくて、そういう家庭で育ってきているから愛は世間一般では男女の愛をさすと知ったときは驚いたらしい、普通はそっちの男女愛の意味ですよね?と振られた時は私も、え~?愛って、神様の愛の方を指すんじゃ?と思いました。


私の愛の観念も世間とズレていたらしい。
そっか、それを求めていたから今までお付き合いした人とはうまくいかなかったのか!求めるものが違えば合うはずがありません。思い返せば無償じゃなかった。有償だった。でも、その世間一般の愛において有償しか知らない私は、その間違いをおかすのが正解なのであります。今になって分かりました。



じゃあ、世間一般の方の無償ってどんな感じ??
答えは色々あるけど、例えば
「ねぇ、あたしが男でも好き?」
って聞いた時に
「好き」
と大真面目で答えてくれる人が無償のもの愛を与えてくれてる人ではないでしょうか。って、こんなことは友達にも聞いてみたくてたまらないんですが、実際に聞いてみたことはありません。聞けなくてたまに勝手に悲しくなってます。



今、ふと自分で聞けないから逆に聞いてみて欲しいなあという考えがよぎったのですが、私が女なので、お相手は必然的に男になる訳で。

と、いうことは、
「オレが女でも好き?」
になる訳で。
いや...やっぱり聞かないで欲しいかな...
だから私も聞かないね 笑



話が随分脱線しましたが、正規の路線に戻します。

私にはシスターの他にもう一人、同じ種類の、根底の所で同じだなあと思える人が居ます。その人もシスターの言葉を借りると私にとって、’友人と呼ぶには若すぎる’人です。


クリスチャンって、日本の人口の1%。
そのうち70%がプロテスタント、なのでカトリック人口は全人口の0.003%らしい。
その中で既にそう思える人に2人にも出会えるなんて、その計画が与えられた私は幸せ者です。




シスター方にもっと早く出会いたかった!とも感じたけど、教会に行きたいと思った高校の時に改宗していたらガッチガチの石頭のクリスチャンになっていたと思う。まちがいなく。
今の私って、親に養われているわけでないし、結婚してしまってて相手とトラブルになるわけでもない、中年になって人生の目的がなくてすがるのものを求めている訳でもない。

何回考えても今がベスト。
今、本当にしあわせ。
でも、幸せと悲しいって感情って、とても似ている。
これって、幸せ恐怖症?

そうなのかも。

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